2005年08月26日

スクロールと「ご褒美」の関係[その4]

 1985年の「スーパーマリオブラザース」の登場により、スクロール型ゲームのフォーマットは、完成してしまったといってもいいでしょう。

 そこには、「死んだら終わり」という、ゲームセンターの頃のルールが残っています。しかし、同時に魅力的な世界をたっぷりと用意し、「ミスってもいいんだよ」「先を見たくないかい?」という動機を、強く与えるようにしているのです。そして、それを実現するために「一撃では死なない方法を加える」というフォーマットです。

 以降、ほぼすべてのスクロールゲーム(に限らず、広い世界が用意されているゲーム)は、このフォーマットからはみ出ることなく、作られています。アクションの形や、マップやキャラクたー形状などに違いはあっても、「スーパーマリオブラザース」が完成させたフォーマットの基本部分は、しっかりと守られていると考えていいでしょう。



 「スーパーマリオブラザース」が登場した頃から、ファミコンは一気に普及していきます。テレビゲームは、「家庭で遊ぶもの」としての比重を高めていくのです。多くの人が、ごく当たり前のように、「ゲームは家で遊ぶものだ」と考えるようになっていきます。

 だから、それに合わせるように、スクロールゲームの中身は、「死んだら終わり」というゲームセンターの頃のルールを薄めていきました。そして「ミスってもいいんだよ」という救済策を強めていきます。「スーパーマリオブラザース」以降のスクロール型ゲームの歴史は、「死ににくさ」の度合いを変化させる歴史だといってもいいほどです。



 「スーパーマリオ」シリーズの歴史を見てみましょう。基本的には「小さいマリオのとき、ミスをすると死んでしまう」というルールを遵守しつつ、シリーズを重ねるごとに、「小さくなりにくい」つまり「一撃死しにくい」ように、変化していることがわかります。

 1988年発売の「スーパーマリオブラザース3」では、アイテムをストックできるようになりました。これを使えば、いつでも「スーパーマリオ」の状態(一撃では死なない状態)でプレイできるようになりました。1990年の「スーパーマリオワールド」では、新キャラとしてヨッシーが登場。マリオがヨッシーに乗っているときは、たとえ敵に触れても「ヨッシーが逃げるだけ」というペナルティしかありません。一回のミスでは、マリオが小さくなることすら、なくなりました。

 そして1995年。「ヨッシーアイランド」では、「一撃死」という概念がなくなります。敵に触れると、背中に乗せていたベビーマリオが離れてしまう、というペナルティーがありますが、10秒以内につかまえれば、何事もなかったように元通りになります。「ミスをしても、時間内に対処すればペナルティーがない」という形になっています。10秒たっても救出できないとき、はじめて「ミスした」ことになるのです。

 こうして、「スーパーマリオ」シリーズから、ついに「一撃死」という、ゲームセンター時代の概念がなくなります。だかにこそ、「ヨッシーアイランド」は、ゲームセンター時代から守ってきた「ハイスコア表示」を、同時に消失させたのかもしれません。



 スコアとは、もとは「1up」のために存在したシステムです(8月11日の記述を参照のこと)。「一撃死」があり、いつ死ぬかわからないという緊張感があるからこそ、上手い人には「1up」という「ご褒美」が与えられていたのですね。ならば「一撃死」がなくなった時点で、スコアは消えていくのは、当然の流れなのです。

 もっとも、「スーパーマリオ」シリーズは、「一撃死しにくい」ように作れていたゲーム。だからスコアを稼ぐのではなく、別の形での「1up」が用意されていました。たとえば1upキノコがありました。アイテムを取るだけでキャラクターが増える、という形になっていました。コインを100枚集めても1up。8連続で敵を攻撃しても1upです。スコアとは関係ないところで、「マリオが増えていく喜び」を与えるように、最初から作られていたゲームだったのです。



 じわじわと変化を見せていた「スーパーマリオ」シリーズが、さらに大きな変化を見せたのは、1997年の「スーパーマリオ64」から。スクロール型ゲームから離れ、世界は3Dになりました。そして同時に、マリオの「死ににくさ」も格段に上がりました。ライフに8つの目盛りがあり、たとえミスしても、目盛りがゼロになるまでは死なない、というルールに変更されました。

 これは、RPGでいうところのHPと同じです。ゲームセンターで生まれたシステムの残滓を残してきた「スーパーマリオ」シリーズが、ついにRPG的なルールと合流したのですね。これが、どのような流れの結果として合流するにいたったのか……という話もしたいのですが、ここでは説明しきれそうにありません。それはまた、別の機会に。
 
[この項、終わり]
posted by 野安 at 18:24| Comment(4) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

スクロールと「ご褒美」の関係[その3]

 キノコを取ると、スーパーマリオになれる!

 文字にすると、わずか20文字ほど。しかし、この世に誕生したテレビゲームに採用されたルールの中で、後続にもっとも影響を与えたものは何か? を突き詰めていくと、この一文に到達せざるをえません。1985年に登場した「スーパーマリオブラザース」が、全世界を席巻するモンスターヒットを記録したのも、このルールにあると断言していいでしょう。



 「スーパーマリオブラザース」は、かつてない魅力的な世界を用意したゲームでした。そこには、どこまでも続くかのような広い世界がありました。ブロックの組み合わせによる多彩な地形がありました。個性的な敵も配置されました。世界は多彩で、青い空が広がる大地があるかと思えば、薄暗い地下もあり、さらには水中を進むステージもありました。それらの魅力的なステージが、合計で32も用意されました。それは従来のゲームと比較すると、ケタ違いの広さでした。

 これほどに魅力的な世界を用意されては、わたしたちは、「先を見たいぜ!」と思わずにはいられませんでした。なにしろ操作はシンプルで、走ったりジャンプしながら右端に到達すればクリアという単純明快なルールだったのです。スクロールは自分の意思で行えますし、Bボタンを押して走ることも可能でした。

 さらには、「スター」を取れば無敵になれて、ぐいぐいと右へ進む気持ちよさが体験できました。「ファイアマリオ」になれば、邪魔な敵をなぎ倒しながら快適に進むこともできました。あらゆる要素が、「どんどん右へ進もうよ! それって気持ちいいよ!」と囁くかのように設計されていたのです。その囁きに促されるように、わたしたちは、その広い世界を心から堪能したくなりました。右へ右へと急ぎたくなる欲求を、止められなくなっていったのです。

 この欲求に従ってプレーできるよう、「スーパーマリオブラザース」は、かつてない斬新なルールを設定したことを、ここで強調しておきましょう。それが、冒頭で説明した「キノコを取ると、スーパーマリオになれる!」というルールです。



 このルールが、従来のテレビゲームをプレイするときに持っていた「死んだら終わりだぞ! だから慎重にプレイしなくては」という縛りから、わたしたちを一気に開放したのです! キノコを取ればスーパーマリオになります。こうなると、敵に触れても小さくなるだけですむ。つまり「ミスしても死なない」ということになったのです!

 わたしたちは、もはや死を恐れながら、慎重にプレイする必要がなくなりました。心のおもむくままに、「先を見たい」という欲求を最優先できるようになりました。魅力的な世界を満喫しつつ、「どんどん先へ進む」楽しさを味わえるようになりました。わたしたちが、いまでも、「スーパーマリオブラザース」の世界を駆け抜けたときの、心から楽しんだ記憶を持っているのは、そのためなのです。

 これは、テレビゲームの歴史を変えました。それまでのテレビゲームは、「死んだら終わり」だったゆえに、「死にたくない、という緊張感に耐えられる人だけが楽しめる娯楽」だったのです。それが、「無茶してもいいんだよ」「ミスしてもいいんだよ」「緊張しないでプレイしても、ステキなご褒美があるよ」という娯楽へと進化しました。これこそが、テレビゲームを老若男女が楽しめる、大衆的な娯楽へと押し上げた要因のひとつといっていいでしょう。以降、テレビゲームが飛躍的な普及を実現するのは、みなさんがご存知の通りです。



 補足しておきましょう。ミスしても死なないのであれば、ゲームは成立しません。だから小さいマリオのときは、ミスしたら終わり、という従来どおりのルールが設定され、ゲームセンターのゲームのような緊張感が用意されました。それにより、ゲームセンターのゲームに慣れていた人たちが違和感なくプレーできたことも、「スーパーマリオブラザース」のヒットの要因であったことも、忘れてはいけません。

 極論するならば、「スーパーマリオブラザース」とは、キノコを取ることで、マリオが大きくなったり小さくなったりするゲームだ! といっていいのです。そのたびに、家庭用ゲームならではの「無茶をしてもいい」という感情と、ゲームセンター時代の「慎重にプレイすべきだ」という感情が切り替わる。こうして、2種類の感情を同時に満足させるゲームになっていたことが、「スーパーマリオブラザース」の凄さなのです。

 もろん、このような仕掛けを持つゲームは、これが史上初でしょう。「スーパーマリオブラザース」は、テレビゲームをプレイする場所が、ゲームセンターから家庭へと移行する時期にこそ必要とされた、奇跡のようなゲームだったのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月24日

スクロールと「ご褒美」の関係[その2]

 1980年代中盤。テレビゲームの画面はスクロールするようになりました。

 これにより、テレビゲームの歴史は、大きな転換点を迎えます。もはや、ひとつの固定された画面の中で、エンタテインメントを完結させる必要はありません。ゲームの中の世界は一気に広くなり、画面がスクロールすることによって、次々に新しい世界を見せられるようになりました。わたしたちは、次々に登場するしい画面を見たい! と強く願いながらゲームに向かうようになったのです。

 この歴史的転換点と時期を合わせるように、テレビゲームをめぐる環境は、劇的に変化しています。1983年。ついにファミリー・コンピュータが世の中に登場するのです! それは瞬く間に日本中に普及し、さらには世界を席巻するマシンへと成長しました。ゲームセンターで遊ぶものだったテレビゲームは、あっという間に、家庭で遊べる娯楽へと変化したのです。



 テレビゲームが家庭に飛び込んできたことにより、テレビゲームの中身は、根本的な変化を求められるようになりました。ゲームセンターと家庭用ゲーム機では、課金システムが、まるで違うからです。

 ゲームセンターでは、わたしたちは、プレイの前にお金を払っていました。事前に「ゲームを楽しむ権利」を購入していたのです。だからこそ「なるべく長く遊びたい」と強く願い、「次の面に進める」「残機が増える」ことを喜びました。それらは「より長く遊べる権利を獲得すること」とイコールであり、つまり「ご褒美」として機能していたのです。

 しかし、テレビゲームが家庭で遊べるのであれば、話はガラリと変わってきます。わたしたちは、先にソフトを購入しています。つまり「飽きるまでゲームを遊びつくす権利」を、事前に購入しているのです。1プレイごとにお金を払う必要はなく、ゲームオーバーになっても新たな出費は要りません。これにより「より長くゲームを遊ぶ権利を獲得すること」は、もはや「ご褒美」として機能しなくなるのです。

 それだけではありません。当時のゲームセンターのゲームには「一撃死」がありました。そこでは、敵にやられると死んでしまう(あるいは自機が爆発してしまう)、というルールが守られ続けていました。「やられたら、その瞬間にすべてが終わる」という緊張感があるからこそ、「ゲームを続ける権利を得る」ことが、より輝かしい「ご褒美」として機能していたわけですね。

 家庭用ゲーム機では、「一撃死」は価値を失います。「より長くゲームを続ける権利」が「ご褒美」として機能しないのですから、それを輝かしいものにするためのルールが邪魔になるのは当然のこと。こうして「一撃死」を必要とせず、もちろん「次の面に進める」「残機が増える」などの「ご褒美」にも頼らない、家庭用ゲーム機ならではのゲームが必要とされたのです。



 この難問は、どうやって解決されたのでしょう? 詳しくは後述しますが、これはスクロール型ゲームによって、あざやかに解決したのだ! と覚えておいてください。

 「スクロール型ゲームの登場」と「家庭用ゲーム機の登場」が、ドンピシャのタイミングで重なったことは、テレビゲームの歴史における最大の奇跡だったのかもしれません。そして、この奇跡は、とてつもない怪物ソフトを産み落とします。それが、家庭用ゲーム機のための娯楽としてチューンナップされた初の大作ゲームにして、世界最大のヒットゲーム「スーパーマリオブラザース」です。その登場は、1985年9月13日のことでした。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 15:24| Comment(2) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

スクロールと「ご褒美」の関係[その1]

 1980年代中盤。コンピュータの性能が上がり、テレビゲームは革命的な進化を遂げることになります。

 それを象徴するのが、1983年に登場した「ゼビウス」でしょう。画面がスクロールしていくシューティングゲームです。そこには森があり、道があり、川が流れています。ナスカの地上絵を思わせるような、美しい光景もあります。シンプルながらスタイリッシュな外観の敵キャラも出現します。まだ見たことのない、しかし見るだけでワクワクするような世界が、次々とゲームの中に現れるようになりました。

 それは、黒一色の単調な背景を「宇宙」と見なして、そこで敵を撃つという従来のゲームをプレイしているときとは、まるで違う感情を、わたしたちに与えました。わたしたちは「ゼビウス」で描かれる美しい風景に目を見張り、そして「この先には、何があるのだろう?」と心躍らせながら、このゲームに夢中になっていったのです。

 貴方が、古くからのゲームファンであるならば、「ゼビウス」をプレイしていたときのことを、ぜひ思い出してみてください。どんなシーンが印象に残っていますか? それは「敵を撃ったぜ!」という瞬間などではないはずです。むしろ、ただ「どんどん広がっていく世界の中を進んでいく」ときの光景などが、脳裏をよぎったのではありませんか? あの美しい世界の中でプレイしていた光景そのものを、「気持ちのいい記憶」として思い出したのではありませんか?

 なぜ、敵を撃った瞬間ではなく、「美しい風景の中でプレイしていたこと」を思い出してしまうのでしょうか? 答は明白です。当時から、そちらを「気持ちいい」と感じていたからなのです。「ゼビウス」とは、つまり、そういうゲームだったということです。

(注:中ボスを倒したときのシーンを覚えている人もいるでしょう。あれは「スペース・インベーダー」と同じく、倒さなければ、こちらが倒される、という従来型のゲームの構造になっているため、強く印象に残ってしまうのですね)



 「スペース・インベーダー」や「パックマン」などの従来のゲームは、面クリアをしなければ、ゲームを続けられないようになっていました。多くの場合、クリア条件は「敵を全滅させろ!」というものだったため、わたしたちは「敵を全滅させる」ことを目指し、ゲームに没頭したのです。「全滅」を「気持ちいい」ものと感じたり、全滅に至る過程(つまり、敵を撃つこと)を「気持ちいい」と感じた理由のひとつが、ここにあります。

 しかし「ゼビウス」は違いました。画面がスクロールするため、ただゲームをプレイしているだけで、「新しい風景を見る」という「ご褒美」が得られるからです! わたしたちは、「ただゲームをプレイしているだけ」で、どんどん「ご褒美」を得ていたのです! わたしたちが、「敵を撃ったこと」よりも、「ただゲームをプレイしていること=美しい光景の中でプレイしていたこと」を強く記憶しているのは、そのためなのです。



 こうして「ゼビウス」は、テレビゲームの快楽発生構造に、新しい可能性を提示しました。

 「成功」することにより「ご褒美」が得られる。これがテレビゲームが持つ、普遍的な快楽発生構造です。そして、「ゼビウス」の登場により、「美しい光景を見られること」が、新しい形の「ご褒美」として加わることになりました。以降、わたしたちは、「美しい光景を見たい」という動機で、ゲームに没頭するようになったのです。これが「画面がスクロールするゲーム」がもたらした、最大の意義でしょう。

 このようなゲームでは、もはや敵を「全滅」させる必要はありません。クリア条件を満たす必要すらありません。そのような条件がなくとも、ゲームオーバーにならなければ、延々と「ご褒美」が与えられる、というゲームが成立することが判明したからです。このようなゲームを実現したことが、テレビゲームの歴史における、「ゼビウス」の最大の価値といってもいいでしょう。

 そして、この新しい形の「ご褒美」を獲得したことが、テレビゲームにさらなる進化を促していくのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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