そうして登場したのが、「ポートピア連続殺人事件」です。テキストと挿絵によって物語を進めるという、パソコンゲームならではのスタイルのゲームです。そして翌1986年には、RPGである「ドラゴンクエスト」が、ついに日本に登場するのです。
しかし、これはパソコンゲームを、そのまま日本に持ち込んただけではないのです。むしろ逆だと考えていい。パソコンゲームのスタイルをこそ持ち込んでいますが、その根っことなるエッセンス部分は、きれいさっぱりと捨て去っている。それこそが、この両作品の特徴です。
たとえば、そこからは、ゲームマスターの存在が、バッサリと消し去られています。「ポートピア〜」は、相棒のヤスの言葉によって、物語が説明されました。「ドラゴンクエスト」は、街の人々のセリフによって世界が説明されました。そこには、世界を描写するという立場に立つ者はいないのです。
「みんなで遊ぶもの」という概念もありません。これらは1人で遊ぶゲームとして設計されています。そして、がんばると「成功」があり、それにともなった「ご褒美」があるようになっています。パソコンゲームの流れを汲んだスタイルでありながら、ゲームセンターを源流としていたゲームが持つ構造を、同時に受け入れているのですね。(これについては、別項で説明します)。
まだまだあります。パソコンゲームには、もともと「善と悪」という分類がありません。これはウォーSLGを母体としている文化であり、たとえ対立する勢力があっても、どちらかが正しいわけではない、という考えがあるからです。いまでも、海外ゲームでは、善が悪を倒す、という物語が少ないのは、そのためなのです。しかし「ドラゴンクエスト」は、最初から堂々と善と悪の対決を描いていることは、みなさん、よくご存知のとおりです。
また、もともとのRPGは、無名の人物を主人公とする物語でした。みんなで世界を共有する遊びから始まった文化であり、ゆえに参加者は特別な立場ではなく、ワンオブゼムに過ぎないからです。しかし「ドラゴンクエスト」は違う。主人公は世界を救う特別な人物でした。そして悪を滅ぼすという完結する物語が用意され、それを成し遂げるための、起承転結が用意されたのです。
他にも例はあげられるのですが、このへんにしておきましょう。この両ゲームが、パソコンゲームの形を受け入れつつ、しかしパソコンゲームの歴史に根差した残されている骨格部分を、きれいさっぱりと捨て去っていることは、おわかりになったと思います。
そこには、このような大胆なアレンジがあったのです。だからこそ、パソコンゲームを源流とするゲーム文化と、ゲームセンターを源流とするゲーム文化が、プレイヤーに違和感を感じさせることもなく、きちんと融合することになりました。(もっとも、こうして根っこの部分をしらないままRPGに触れてしまった日本のユーザーが、海外ゲームに対する無理解を生む結果になるのですが、それはまた、別の項で説明しましょう)。
いずれにせよ、これにより、日本のゲームは、世界で唯一、「すべてのゲーム文化を飲み込む」ことに成功します。異文化を受け入れたファミコンが、子供から大人まで巻き込む、とてつもないムーブメントを引き起こしたのは、ご存知のとおりです。いまから、およそ20年前のことでした。
[この項、いったん終わり]