2005年08月26日

スクロールと「ご褒美」の関係[その4]

 1985年の「スーパーマリオブラザース」の登場により、スクロール型ゲームのフォーマットは、完成してしまったといってもいいでしょう。

 そこには、「死んだら終わり」という、ゲームセンターの頃のルールが残っています。しかし、同時に魅力的な世界をたっぷりと用意し、「ミスってもいいんだよ」「先を見たくないかい?」という動機を、強く与えるようにしているのです。そして、それを実現するために「一撃では死なない方法を加える」というフォーマットです。

 以降、ほぼすべてのスクロールゲーム(に限らず、広い世界が用意されているゲーム)は、このフォーマットからはみ出ることなく、作られています。アクションの形や、マップやキャラクたー形状などに違いはあっても、「スーパーマリオブラザース」が完成させたフォーマットの基本部分は、しっかりと守られていると考えていいでしょう。



 「スーパーマリオブラザース」が登場した頃から、ファミコンは一気に普及していきます。テレビゲームは、「家庭で遊ぶもの」としての比重を高めていくのです。多くの人が、ごく当たり前のように、「ゲームは家で遊ぶものだ」と考えるようになっていきます。

 だから、それに合わせるように、スクロールゲームの中身は、「死んだら終わり」というゲームセンターの頃のルールを薄めていきました。そして「ミスってもいいんだよ」という救済策を強めていきます。「スーパーマリオブラザース」以降のスクロール型ゲームの歴史は、「死ににくさ」の度合いを変化させる歴史だといってもいいほどです。



 「スーパーマリオ」シリーズの歴史を見てみましょう。基本的には「小さいマリオのとき、ミスをすると死んでしまう」というルールを遵守しつつ、シリーズを重ねるごとに、「小さくなりにくい」つまり「一撃死しにくい」ように、変化していることがわかります。

 1988年発売の「スーパーマリオブラザース3」では、アイテムをストックできるようになりました。これを使えば、いつでも「スーパーマリオ」の状態(一撃では死なない状態)でプレイできるようになりました。1990年の「スーパーマリオワールド」では、新キャラとしてヨッシーが登場。マリオがヨッシーに乗っているときは、たとえ敵に触れても「ヨッシーが逃げるだけ」というペナルティしかありません。一回のミスでは、マリオが小さくなることすら、なくなりました。

 そして1995年。「ヨッシーアイランド」では、「一撃死」という概念がなくなります。敵に触れると、背中に乗せていたベビーマリオが離れてしまう、というペナルティーがありますが、10秒以内につかまえれば、何事もなかったように元通りになります。「ミスをしても、時間内に対処すればペナルティーがない」という形になっています。10秒たっても救出できないとき、はじめて「ミスした」ことになるのです。

 こうして、「スーパーマリオ」シリーズから、ついに「一撃死」という、ゲームセンター時代の概念がなくなります。だかにこそ、「ヨッシーアイランド」は、ゲームセンター時代から守ってきた「ハイスコア表示」を、同時に消失させたのかもしれません。



 スコアとは、もとは「1up」のために存在したシステムです(8月11日の記述を参照のこと)。「一撃死」があり、いつ死ぬかわからないという緊張感があるからこそ、上手い人には「1up」という「ご褒美」が与えられていたのですね。ならば「一撃死」がなくなった時点で、スコアは消えていくのは、当然の流れなのです。

 もっとも、「スーパーマリオ」シリーズは、「一撃死しにくい」ように作れていたゲーム。だからスコアを稼ぐのではなく、別の形での「1up」が用意されていました。たとえば1upキノコがありました。アイテムを取るだけでキャラクターが増える、という形になっていました。コインを100枚集めても1up。8連続で敵を攻撃しても1upです。スコアとは関係ないところで、「マリオが増えていく喜び」を与えるように、最初から作られていたゲームだったのです。



 じわじわと変化を見せていた「スーパーマリオ」シリーズが、さらに大きな変化を見せたのは、1997年の「スーパーマリオ64」から。スクロール型ゲームから離れ、世界は3Dになりました。そして同時に、マリオの「死ににくさ」も格段に上がりました。ライフに8つの目盛りがあり、たとえミスしても、目盛りがゼロになるまでは死なない、というルールに変更されました。

 これは、RPGでいうところのHPと同じです。ゲームセンターで生まれたシステムの残滓を残してきた「スーパーマリオ」シリーズが、ついにRPG的なルールと合流したのですね。これが、どのような流れの結果として合流するにいたったのか……という話もしたいのですが、ここでは説明しきれそうにありません。それはまた、別の機会に。
 
[この項、終わり]
posted by 野安 at 18:24| Comment(4) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

スクロールと「ご褒美」の関係[その3]

 キノコを取ると、スーパーマリオになれる!

 文字にすると、わずか20文字ほど。しかし、この世に誕生したテレビゲームに採用されたルールの中で、後続にもっとも影響を与えたものは何か? を突き詰めていくと、この一文に到達せざるをえません。1985年に登場した「スーパーマリオブラザース」が、全世界を席巻するモンスターヒットを記録したのも、このルールにあると断言していいでしょう。



 「スーパーマリオブラザース」は、かつてない魅力的な世界を用意したゲームでした。そこには、どこまでも続くかのような広い世界がありました。ブロックの組み合わせによる多彩な地形がありました。個性的な敵も配置されました。世界は多彩で、青い空が広がる大地があるかと思えば、薄暗い地下もあり、さらには水中を進むステージもありました。それらの魅力的なステージが、合計で32も用意されました。それは従来のゲームと比較すると、ケタ違いの広さでした。

 これほどに魅力的な世界を用意されては、わたしたちは、「先を見たいぜ!」と思わずにはいられませんでした。なにしろ操作はシンプルで、走ったりジャンプしながら右端に到達すればクリアという単純明快なルールだったのです。スクロールは自分の意思で行えますし、Bボタンを押して走ることも可能でした。

 さらには、「スター」を取れば無敵になれて、ぐいぐいと右へ進む気持ちよさが体験できました。「ファイアマリオ」になれば、邪魔な敵をなぎ倒しながら快適に進むこともできました。あらゆる要素が、「どんどん右へ進もうよ! それって気持ちいいよ!」と囁くかのように設計されていたのです。その囁きに促されるように、わたしたちは、その広い世界を心から堪能したくなりました。右へ右へと急ぎたくなる欲求を、止められなくなっていったのです。

 この欲求に従ってプレーできるよう、「スーパーマリオブラザース」は、かつてない斬新なルールを設定したことを、ここで強調しておきましょう。それが、冒頭で説明した「キノコを取ると、スーパーマリオになれる!」というルールです。



 このルールが、従来のテレビゲームをプレイするときに持っていた「死んだら終わりだぞ! だから慎重にプレイしなくては」という縛りから、わたしたちを一気に開放したのです! キノコを取ればスーパーマリオになります。こうなると、敵に触れても小さくなるだけですむ。つまり「ミスしても死なない」ということになったのです!

 わたしたちは、もはや死を恐れながら、慎重にプレイする必要がなくなりました。心のおもむくままに、「先を見たい」という欲求を最優先できるようになりました。魅力的な世界を満喫しつつ、「どんどん先へ進む」楽しさを味わえるようになりました。わたしたちが、いまでも、「スーパーマリオブラザース」の世界を駆け抜けたときの、心から楽しんだ記憶を持っているのは、そのためなのです。

 これは、テレビゲームの歴史を変えました。それまでのテレビゲームは、「死んだら終わり」だったゆえに、「死にたくない、という緊張感に耐えられる人だけが楽しめる娯楽」だったのです。それが、「無茶してもいいんだよ」「ミスしてもいいんだよ」「緊張しないでプレイしても、ステキなご褒美があるよ」という娯楽へと進化しました。これこそが、テレビゲームを老若男女が楽しめる、大衆的な娯楽へと押し上げた要因のひとつといっていいでしょう。以降、テレビゲームが飛躍的な普及を実現するのは、みなさんがご存知の通りです。



 補足しておきましょう。ミスしても死なないのであれば、ゲームは成立しません。だから小さいマリオのときは、ミスしたら終わり、という従来どおりのルールが設定され、ゲームセンターのゲームのような緊張感が用意されました。それにより、ゲームセンターのゲームに慣れていた人たちが違和感なくプレーできたことも、「スーパーマリオブラザース」のヒットの要因であったことも、忘れてはいけません。

 極論するならば、「スーパーマリオブラザース」とは、キノコを取ることで、マリオが大きくなったり小さくなったりするゲームだ! といっていいのです。そのたびに、家庭用ゲームならではの「無茶をしてもいい」という感情と、ゲームセンター時代の「慎重にプレイすべきだ」という感情が切り替わる。こうして、2種類の感情を同時に満足させるゲームになっていたことが、「スーパーマリオブラザース」の凄さなのです。

 もろん、このような仕掛けを持つゲームは、これが史上初でしょう。「スーパーマリオブラザース」は、テレビゲームをプレイする場所が、ゲームセンターから家庭へと移行する時期にこそ必要とされた、奇跡のようなゲームだったのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月24日

スクロールと「ご褒美」の関係[その2]

 1980年代中盤。テレビゲームの画面はスクロールするようになりました。

 これにより、テレビゲームの歴史は、大きな転換点を迎えます。もはや、ひとつの固定された画面の中で、エンタテインメントを完結させる必要はありません。ゲームの中の世界は一気に広くなり、画面がスクロールすることによって、次々に新しい世界を見せられるようになりました。わたしたちは、次々に登場するしい画面を見たい! と強く願いながらゲームに向かうようになったのです。

 この歴史的転換点と時期を合わせるように、テレビゲームをめぐる環境は、劇的に変化しています。1983年。ついにファミリー・コンピュータが世の中に登場するのです! それは瞬く間に日本中に普及し、さらには世界を席巻するマシンへと成長しました。ゲームセンターで遊ぶものだったテレビゲームは、あっという間に、家庭で遊べる娯楽へと変化したのです。



 テレビゲームが家庭に飛び込んできたことにより、テレビゲームの中身は、根本的な変化を求められるようになりました。ゲームセンターと家庭用ゲーム機では、課金システムが、まるで違うからです。

 ゲームセンターでは、わたしたちは、プレイの前にお金を払っていました。事前に「ゲームを楽しむ権利」を購入していたのです。だからこそ「なるべく長く遊びたい」と強く願い、「次の面に進める」「残機が増える」ことを喜びました。それらは「より長く遊べる権利を獲得すること」とイコールであり、つまり「ご褒美」として機能していたのです。

 しかし、テレビゲームが家庭で遊べるのであれば、話はガラリと変わってきます。わたしたちは、先にソフトを購入しています。つまり「飽きるまでゲームを遊びつくす権利」を、事前に購入しているのです。1プレイごとにお金を払う必要はなく、ゲームオーバーになっても新たな出費は要りません。これにより「より長くゲームを遊ぶ権利を獲得すること」は、もはや「ご褒美」として機能しなくなるのです。

 それだけではありません。当時のゲームセンターのゲームには「一撃死」がありました。そこでは、敵にやられると死んでしまう(あるいは自機が爆発してしまう)、というルールが守られ続けていました。「やられたら、その瞬間にすべてが終わる」という緊張感があるからこそ、「ゲームを続ける権利を得る」ことが、より輝かしい「ご褒美」として機能していたわけですね。

 家庭用ゲーム機では、「一撃死」は価値を失います。「より長くゲームを続ける権利」が「ご褒美」として機能しないのですから、それを輝かしいものにするためのルールが邪魔になるのは当然のこと。こうして「一撃死」を必要とせず、もちろん「次の面に進める」「残機が増える」などの「ご褒美」にも頼らない、家庭用ゲーム機ならではのゲームが必要とされたのです。



 この難問は、どうやって解決されたのでしょう? 詳しくは後述しますが、これはスクロール型ゲームによって、あざやかに解決したのだ! と覚えておいてください。

 「スクロール型ゲームの登場」と「家庭用ゲーム機の登場」が、ドンピシャのタイミングで重なったことは、テレビゲームの歴史における最大の奇跡だったのかもしれません。そして、この奇跡は、とてつもない怪物ソフトを産み落とします。それが、家庭用ゲーム機のための娯楽としてチューンナップされた初の大作ゲームにして、世界最大のヒットゲーム「スーパーマリオブラザース」です。その登場は、1985年9月13日のことでした。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 15:24| Comment(2) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

スクロールと「ご褒美」の関係[その1]

 1980年代中盤。コンピュータの性能が上がり、テレビゲームは革命的な進化を遂げることになります。

 それを象徴するのが、1983年に登場した「ゼビウス」でしょう。画面がスクロールしていくシューティングゲームです。そこには森があり、道があり、川が流れています。ナスカの地上絵を思わせるような、美しい光景もあります。シンプルながらスタイリッシュな外観の敵キャラも出現します。まだ見たことのない、しかし見るだけでワクワクするような世界が、次々とゲームの中に現れるようになりました。

 それは、黒一色の単調な背景を「宇宙」と見なして、そこで敵を撃つという従来のゲームをプレイしているときとは、まるで違う感情を、わたしたちに与えました。わたしたちは「ゼビウス」で描かれる美しい風景に目を見張り、そして「この先には、何があるのだろう?」と心躍らせながら、このゲームに夢中になっていったのです。

 貴方が、古くからのゲームファンであるならば、「ゼビウス」をプレイしていたときのことを、ぜひ思い出してみてください。どんなシーンが印象に残っていますか? それは「敵を撃ったぜ!」という瞬間などではないはずです。むしろ、ただ「どんどん広がっていく世界の中を進んでいく」ときの光景などが、脳裏をよぎったのではありませんか? あの美しい世界の中でプレイしていた光景そのものを、「気持ちのいい記憶」として思い出したのではありませんか?

 なぜ、敵を撃った瞬間ではなく、「美しい風景の中でプレイしていたこと」を思い出してしまうのでしょうか? 答は明白です。当時から、そちらを「気持ちいい」と感じていたからなのです。「ゼビウス」とは、つまり、そういうゲームだったということです。

(注:中ボスを倒したときのシーンを覚えている人もいるでしょう。あれは「スペース・インベーダー」と同じく、倒さなければ、こちらが倒される、という従来型のゲームの構造になっているため、強く印象に残ってしまうのですね)



 「スペース・インベーダー」や「パックマン」などの従来のゲームは、面クリアをしなければ、ゲームを続けられないようになっていました。多くの場合、クリア条件は「敵を全滅させろ!」というものだったため、わたしたちは「敵を全滅させる」ことを目指し、ゲームに没頭したのです。「全滅」を「気持ちいい」ものと感じたり、全滅に至る過程(つまり、敵を撃つこと)を「気持ちいい」と感じた理由のひとつが、ここにあります。

 しかし「ゼビウス」は違いました。画面がスクロールするため、ただゲームをプレイしているだけで、「新しい風景を見る」という「ご褒美」が得られるからです! わたしたちは、「ただゲームをプレイしているだけ」で、どんどん「ご褒美」を得ていたのです! わたしたちが、「敵を撃ったこと」よりも、「ただゲームをプレイしていること=美しい光景の中でプレイしていたこと」を強く記憶しているのは、そのためなのです。



 こうして「ゼビウス」は、テレビゲームの快楽発生構造に、新しい可能性を提示しました。

 「成功」することにより「ご褒美」が得られる。これがテレビゲームが持つ、普遍的な快楽発生構造です。そして、「ゼビウス」の登場により、「美しい光景を見られること」が、新しい形の「ご褒美」として加わることになりました。以降、わたしたちは、「美しい光景を見たい」という動機で、ゲームに没頭するようになったのです。これが「画面がスクロールするゲーム」がもたらした、最大の意義でしょう。

 このようなゲームでは、もはや敵を「全滅」させる必要はありません。クリア条件を満たす必要すらありません。そのような条件がなくとも、ゲームオーバーにならなければ、延々と「ご褒美」が与えられる、というゲームが成立することが判明したからです。このようなゲームを実現したことが、テレビゲームの歴史における、「ゼビウス」の最大の価値といってもいいでしょう。

 そして、この新しい形の「ご褒美」を獲得したことが、テレビゲームにさらなる進化を促していくのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | スクロール型ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月22日

4つめのテーマ

ブログ開始から、ここまで読んでいただいた人には一目瞭然なのですが、
つまり、ここは年代順にゲームの歴史を追っているブログなのです。

今週は「画面がスクロールするゲーム」の話です。
やっと、およそ20年前まで到達しました。

いままでのように「謎」を提示するとするならば、
マリオは、なぜ“スーパー”マリオになったのか?
という謎に迫ります。


posted by 野安 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月19日

固定画面ゲームの進化[その4]

 1980年の「パックマン」を経て、ゲーム愛好者たちは「凄いシーンを見たい」「凄いシーンを見せ付けたい」と願うようになりました。

 その結果、ゲーム愛好者たちは、それまで脈々と続いていた「敵を全滅させる=面クリア」というルールを、やや古臭く感じるようになりました。「スペース・インベーダー」は、55発撃たなければクリアできませんし、「パックマン」は迷路をすべて移動しないとクリアできません。上手いプレイヤーでも、面クリアに最低限の時間がかかります。これは「より早く先を見たい!」という心理と相容れなかったのです。

 テレビゲームは、「全滅」にかわる、新しい形の「成功=面クリア」の方法を求められることになりました。「まだ見ぬシーンを見たい」という欲求を叶えるための、「上手くなるほど、より早くクリアできる」というルールが必要となったのです。

 こうして、「ゴールに到達すると面クリア」というゲームが登場します。その代表は1981年製作の「ドンキーコング」でしょうか。敵を全滅させる必要はない。敵からは逃げればいい。そしてゴールまで到達すれば面クリア! というゲームです。1〜4面まで、まったく違う形状の面が用意され、「どんどん新しいシーンが見られて、嬉しい!」という感情を与えるゲームでもありました。上手い人は、猛スピードでクリアするという「神業のようなプレイ」が可能で、どんどん先の面を見られるようになっていました。

 ゲーム愛好者たちは、この新しい形の「成功」を受け入れました。これにより、「上手い人が、より早くクリアできる」という時代が到来します。以降、ゴールを目指すゲームが固定画面ゲームの主流になり、「全滅」を目指すゲームは、ゆっくりと下火になっていくのです。




 その後、「全滅」を目指すゲームは、完全に消え去ったのでしょうか?

 いいえ。「閉ざされた空間」の中で「敵を全滅させる」という楽しさは、いまなおゲームの中に生き残っています。いたるところで目撃できます。たとえば、シューティングゲームやアクションゲームなどで、ボス戦になると「固定画面」になるのは、その名残りといっていい。「画面が固定される」=「その場から出られなくなる」という環境を用意することで、「死にたくなければ、全滅させろ!」という、ゲームセンターの時代のルールを復活させています。

 RPGもそう。多くの国産RPGでは、戦闘に入ると画面が切り替わり、逃げ場のないシーンが用意されます。そして敵を「全滅」させると、経験値やアイテムなどの「ご褒美」が得られるようになっています。これを何度も繰り返すことで、プレイヤーを楽しませているのです。(固定画面においては、全滅させることこそが「成功」であり「気持ちいい」ことなので、全滅させずに逃げた場合、経験値などの「ご褒美」は得られないことが多いのです)

 閉じ込められると、全滅させたくなる。
 全滅させると、気持ちいいと感じる。

 ゲームセンターの頃に発見された面白さは、それから20年以上たった今も、テレビゲームの中に息づいてます。これは、どれだけゲーム機が進化しても、延々と生き残り続けるでしょう。



 さて。固定画面ゲームの進化の歴史は終わっても、もちろんテレビゲームの歴史は終わりません。「より早く先を見たい!」という動機をかなえるため、「ゴールを目指す」という新しい形の「ご褒美」を発見したテレビゲームは、それを軸にして、次なる進化をスタートさせます。

 テレビゲームは、ついに固定画面を捨て、画面がスクロールする時代へと突入します。これにより、テレビゲームは劇的な変化を遂げることになるのですが、それはまた、別の機会に。

[この項、終わり]
posted by 野安 at 21:35| Comment(5) | TrackBack(0) | 固定画面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月18日

固定画面ゲームの進化[その3]

 「パックマン」には、現在でも使用されている、2つの新しい「ご褒美」の形が提示されています。

 ひとつは「パックマン」を面クリアしたときに登場する、ミニコントのようなデモ画面です。ゲーム愛好者たちは、このデモ画面を見て、喜びました。それは単純に楽しいものであったし、それ以上、自分が面クリアしたことを祝福されたような気分になれたからです。耳に残る音楽とともにデモ画面が始まると、ゲームの周囲にいた人たちから、「お、○面をクリアしたのか」という眼差しを向けられることもありました。それもまた、嬉しさを増幅させました。

 これこそが、「パックマン」が初めて採用し、以降のテレビゲームで普遍的に使用されるようになった、新しい形の「ご褒美」です。プレイヤーが「成功」して、「気持ちいい」と感じたときに、そのドンピシャのタイミングで「おめでとう!」という気持ちを感じさせるデモ画面を用意する、という手法ですね。

 脱衣マージャンで勝利したときに女性キャラが服を脱ぐのも、RPGの戦闘が終わったときファンファーレ(のようなSE)が流れるのも、基本的には同じことです。それらは、すべて「成功」に対する「ご褒美」なのですね。「気持ちいい」と感じる瞬間に「ご褒美」があると、わたしたちは嬉しく感じるのです。

 「パックマン」は、こういった形の「ご褒美」を用意した初のゲームでした。だからこそ、わたしたちは「パックマン」をプレイするとき、「先の面を見たい!」という気持ちを、より強く持つようになったのです。そして、ハイスコアを出した人も凄いけれど、スコアは低くても、先の面まで到達できた人も凄いよ! と思うようになっていったのです。




 「パックマン」が提示した、もうひとつ「ご褒美」は、さらに斬新なものでした。

 「パックマン」は、迷路を移動するゲームです。その最大の攻略法は、「より正しい手順でパックマンを移動させること」に尽きます。いったん、ミスせずにクリアできる手順を知ってしまえば、その手順を踏襲するだけで、ミスすることなく、どんどん先の面へ進めるようになっているからです。

 どうやって正しい手順を知ればいいのでしょう? カンタンです。より上手い人のプレーを見ればいいのですね。上手い人のプレーぶりを見て、その手順を覚えるこそことが、「パックマン」の最大の攻略法でした。「パックマン」とは、「上手くなりたいのなら、他人のプレーを見るべし!」というゲームなのですね。

 そこで、ボーナスフルーツが大きな意味を持つことになりました。

 「パックマン」では、画面の中央に、チェリーやオレンジ、リンゴなどのフルーツが登場します。このため、他人がプレイしているゲーム画面を覗き込んだとき、「あ、リンゴが出てるってことは、8〜9面まで来てるんだ」と、一発で理解できます。「8〜9面は、このような手順で移動すればいいのか」と学習できるのです。「スペース・インベーダー」をプレイしているのを見ても、それが何面なのか瞬間的にわからないことと比較すると、これは大きな変化でした。

 プレーしている側にしてみると、「ほら、オレはもう○○のフルーツを出す面にいるんだぞ!」と、心の中で自慢しながらプレーできる、ということです。これまでのゲームでは、上手い人がいても、「○○点をとった」という形で、ゲームの結果だけしか評価されませんでしたが、「パックマン」は違うのです。「パックマン」は、「プレー」そのものを、リアルタイムで注目したくなるゲームなのですね。

 このことが、新しい「ご褒美」を生み出しました。

 だって、そうでしょう? 上手い人の周囲には、どんどん人が集まるのです。難しい面をクリアしたときなどには、「おぉっ!」というどよめきが周囲から聞こえるのです。つまり「パックマン」というゲームは、いいプレーをすればするほど、「他人からの賞賛」という「ご褒美」を得られるゲームだということです!

 このように、「周囲からの賞賛」という「ご褒美」を得られるゲームは、ゲームの歴史上、たぶん「パックマン」が初めてでしょう。これにより、テレビゲームは、「プレー」するだけのものでなく、「見る」「見られる」「見せ付ける」ことを楽しめる娯楽へと、大きくジャンプアップすることになったのです。その歴史的意義は、とてつもなく大きいと思います。




「ゲームは、ひとりで没頭する孤独な遊びだ」

 という悪口が、1980年代に、よく聞かれました。たしかに「スペース・インベーダー」が大ブームだったときの資料写真などを見ると、整然と並んだゲーム機1台につき1人ずつ、ゲーム愛好者たちが没頭している姿を確認できます。なるほど、たしかに孤独な遊びに見えます。

 しかし、現在のゲームセンターに行くと、そこに巨大なスクリーンが用意されているのは珍しくありません。そこで他人のプレイ画面を眺めることが可能です。つまり「上手い人のプレーを眺める」という楽しみ方が、ごく当たり前のように根付いているのです(上手い人にとっては、「自分のプレーを見せる」という喜びがあるわけですね)。テレビゲームは「遊ぶ」だけのものではなく、「見る」「見るれる」「見せ付ける」ものになっていることの、何よりの証明でしょう。

 その変化の契機となったのが「パックマン」なのです。「パックマン」が持つ最大の歴史的価値は、ここにあるといってもいい。

 「パックマン」以降、ゲーム愛好者の中には、より「凄いシーンを見たい」「凄いシーンを見せ付けたい」という心理が高まっていきました。そして、この心理が、テレビゲームに次なる進化を促していくのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 固定画面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

固定画面ゲームの進化[その2]

 1980年に登場した「パックマン」は、瞬く間にゲーム愛好者たちの心をつかみました。

 黒を基調としたゲームが多かった中、突如登場したカラフルな画面。シンプルながら、愛着を感じずにはいられない魅力的な主人公。4色に色分けされ、それぞれ行動パターンの違う敵キャラクター。そこで展開する、1対4の「おにごっこ」を思わせるスリリングなアクション。そして迷路の散らばっている無数のドット(点)を食べていき、食べつくすと面クリア! という単純きわまりないルール。それらの、あるゆる楽しさを、すべて「移動する」というひとつのアクションで実行できるという単純明快さも素晴らしい点でした。「パックマン」は日本のみならず、世界中のゲーム愛好者を熱狂させました。ゲームセンター時代のゲームとして、これをナンバーワンに挙げる人も少なくありません。

 しかし「パックマン」は、世界的大ヒットゲームである「スペース・インベーダー」の基本構造を、きわめて忠実に踏襲したゲームであることは、けして忘れてはいけません。「撃つ」と「食べる」の違いはありますが、どちらも「障害物を全滅させると、気持ちいいぜ!」という部分を刺激するゲームだからです。

1:敵を全滅させると面クリアとなる
2:クリアに関係ないけれど、高得点を取る方法がある

 これが「スペース・インベーダー」の基本構造でした。「パックマン」では、全滅させるべきものとして「敵」が「ドット」に置き換えられ、クリアに関係ないけれどスコアを稼げるものとして、「UFO」が「フルーツ」に置き換えられていることがわかります。だから「スペース・インベーダー」と同様に、より早い面クリアを目指してもいいし、得点を稼ぐことに力を入れてもよくなり、そのバランスをプレイヤー各自で調整できるようになり、プレイヤーに飽きられにくくなっていました。過去の大傑作ゲームの基本構造を受け継ぎつつ、その上に「食べる」「逃げる」などのアイディアを足したからこそ、「パックマン」は世界中で愛されたといっても過言ではありません。



 基本構造を踏襲したからといって、「パックマン」は「スペース・インベーダー」をパクったのだ! と言っているわけではありません。それを言い出したら、すべてのテレビゲームは「スペース・インベーダー」のバクりになってしまいます。なにしろゲームの基本構造そのものは、現在でも、ほとんど変化していません。あらゆるテレビゲームは、その要素を細かく分解していけば、「成功」と「ご褒美」の組み合わせによって、プレイヤーに楽しさを与えているからです。

1:プレイヤーが、「成功したぜ!」と感じる
2:プレイヤーは、そのことが「気持ちいい!」
3:プレイヤーに、そのとき「ご褒美」が与えられる

 テレビゲームは、すべて「スペース・インベーダー」の頃に作られた、このフォーマットに則って作られています。いや、むしろ逆かもしれません。このフォーマットに則っている娯楽のことをテレビゲームというのです。あとは、どのような形での「成功」を用意するのか、どのような「ご褒美」を与えるのか、そのバリエーションおよび組み合わせによって、新作ゲームは作られています。「スペース・インベーダー」以降のテレビゲームの歴史とは、「成功」と「ご褒美」のバリエーションを、いかに増やしていくかを競う歴史なのだ! と断言してもいいでしょう。

 さて。「スペース・インベーダー」と「バックマン」は、その基本構造が同一であることを説明しましたが、100%まったく同じだったかというと、じつは、ちょっとだけ違うところがありました。細部に目を向けると、「パックマン」の中には、「成功」と「ご褒美」のバリエーションを増やすための萌芽が、静かに誕生していることが発見できるのです。

 それが、ボーナスフルーツです。
 さらに、面クリアしたときに表示されるデモ画面です。

 この2つが、テレビゲームに、新しい形の「成功」と「ご褒美」をもたらすことになります。そして、テレビゲームの新しい扉が開いていくのです。

[この項、後日に続く]
posted by 野安 at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 固定画面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

固定画面ゲームの進化[その1]

 1978年に作られた「スペース・インベーダー」の大ヒットを受けて、日本はテレビゲーム大国へと歩みだします。さまざまなヒットゲームが登場し、ゲームセンターを賑やかせるようになりました。

 「スペース・インベーダー」の直接的な後継ゲームは、翌1979年に作られた「ギャラクシアン」でしょう。「画面上の敵を撃つ」という基本部分を踏襲しつつ、敵の動きを複雑化させ、「スペース・インベーダー」に飽き足らなくなった腕自慢たちに愛されるゲームとなりました。

 ひとつのヒット作が作られると、それを複雑化させるゲームが登場する、という流れは、ここから始まります。より難しいゲームを求める腕自慢たちの期待に応えるため、より複雑化・高速化したゲームが作られるようになるのです。一度ゲーム愛好者になった人たちを、手放さないための正しい対応といえましょう。21世紀になった今も、同じような対応が、延々と続けられています。


 そんな中、違う発想で作られたジャンルも登場しました。


 古典的ゲームを分析してみると、その多くが「全滅」を目的としていることがわかります。「ブロック崩し」は、画面上のブロックをすべて消去していくゲームですし、「スペースインベーダー」はインベーダーを全滅させるゲームです。

 ゲームセンターの時代には、そのようなゲームが強く愛され、ヒットしていたのです。ゲーム愛好者たちは「全滅させる=画面上をスッキリさせる」ことを、気持ちいい、と感じていたことがわかります。

 これは、ジグゾーパズルを埋めたくなるのと似た心理かもしれません。数ピースが空いているジグゾーパズルは、なんとなく気持ち悪いのです。キッチリと埋めたくなる。そうして枠の中の絵を完成させることを、わたしたちは気持ちよく感じます。ゴミが散らばっている部屋を、ピカピカに片付けると、ちょっと気持ちいいし、お皿の上にある料理をたいらげると、ちょっと気持ちいいのも、同じ心理かもしれません。わたしたちは、目の前をキレイにすることを、気持ちいいと感じるのです。

 しかも、テレビゲームにおいては、敵を「全滅」させれば、次の面がスタートします。つまり「全滅」させることは、「より長くゲームを続ける権利を得る」というご褒美と直結しています。この相乗効果により、ゲーム愛好者たちは、画面にないの敵(や障害物)を「全滅」させることを、気持ちいいと感じていたのでしょう。
 
 そこで、テレビゲーム界では、「全滅」させるためのバリエーションを増やす競争をスタートさせます。

 「ブロック崩し」は、ボールを「当てる」ことによって、敵を全滅させていました。「スペース・インベーダー」は、「撃つ」ことによって、敵を全滅させていました。しかし、そもそも「当てる」とか「撃つ」といいうのは、遠くに離れた敵(などの障害物)を消しているわけですから、やや間接的な「全滅手法」といえます。じつのところ、あまり直感的でアクションではありません。

 もっともっと、違う全滅手法はないだろうか? より直接的な「全滅手法」はないだろうか? 直感的に、どんどん邪魔なモノを消していく、というゲームは作れないだろうか?

 それは、すぐに作られました。

 こうして「ドットイート」というジャンルが登場します。画面上にあるドットを、自らが踏む(あるいは食べる、取る)ことによって全滅させていくゲームです。これ異常ない、きわめて直感的な全滅手法が誕生しました。

 元祖となるのは「ヘッドオン」(セガ)あたりでしょうか。そしてその後、ドットイートというジャンルは世界を席巻することになります。1980年、はやくもドットイートゲームの頂点が登場してしまうからです。

 それが「パックマン」です。
posted by 野安 at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 固定画面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

3回目のテーマ

 RPGをプレイしていて、戦闘に勝利すると、経験値がもらえます。
 戦闘せずに「逃げる」を選ぶと、経験値はもらえません。

 では、4体のモンスターが出現したので戦ってみて、2体を倒したところでピンチになったので「逃げる」ことにすると、どうなるでしょう?
 このときも、経験値はもらえないのですね。

 よく考えると、ちょっと不思議です。
 モンスターを倒したのだから、倒した分の経験値をもらってもいいような気もします。

 でも、「モンスターを倒しているのに、経験値をもらえていない」ことに対し、わたしたちが疑問を感じていません。
 なぜ、わたしたちは、それを「不思議だ」と感じないのでしょう?

 3つめのテーマでは、この謎に挑みます。
posted by 野安 at 15:08| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。